「心の足を大地につけて」ー完全なる社会参加への道ー

 

 

 国際障害者年に問う

 

 今年は国際障害者年 

そのテーマである「完全参加と平等」を実現するための、ひとつの実践がここにある。それは、重度の障害を持つ一人のの女性が、自らスウェーデンのケア付き住宅(フォーカス・アパート)を見学し、その原理の日本における土着化をめざして試みたものである。記録には彼女とその仲間の、自立と連帯をめざす、力強い挑戦の成果がきざみこまれ、協力者の熱い意志があふれている。これは、日本の障害者の歴史を拓く勇気ある歩みの”ひとこま”である。そして、一人のパイオニアと仲間の、貴重なヒューマンドキュメントでもある。

 

                   日本女子大学 教授 一番ヶ瀬 康子 (表紙帯より)

 

 

                                      (クリックで大画面)

                                     写真 中田輝義

 

 

                  社会参加への切望

 

 

小山内美智子

 

 昭和28年、北海道上川支庁和寒町に生まれる。生まれながらの脳性マヒで、歩くことは出来るが、手は使えない。九才から施設に通い、十四歳の時養護学校へ。他人の前で足を使うことを禁じられたことに反発し、「他人のいいなりになってわかいがられる」障害者の生き方に疑問を持ちはじめる。現在は足で料理をつくり、絵を描き、タイプを打つ。昭和五十四年、スウェーデンを訪れ、障害者の”自立”のすばらしさに目を洗われた。現在二十七歳、「札幌いちご会」代表。

 

 

 障害者自立への道 小山内美智子

 

 めざめ

 

 今年は国際障害者年。テーマは「完全なる社会参加と平等」である。

 生まれつき障害を持った私が健康な人びとと同じ立場でこれまで社会参加してきたかどうかは疑問である。物心をついた時には人びとは奇妙なものを見る目、見てはならないものを見たとでも言っているような、恐ろしいいかめしい面で私を見ていた。私たちにとっての「完全なる社会参加」とは、どんなところにいても人びとの視線が痛くない社会になることだと思う。

 あまりにも人びとの視線が痛いから、障害の子供を持つ親たちは、視線から逃れようとして、養護学校、施設、コロニーを創る運動に走る。私の親も、我が子を厳しい社会から離し、幸福なパラダイスに住まわせたいと、コロニー(註1)づくりの運動にに走った。

 

 いまから一八年前のことである。脳性マヒ児を持った親たちが集まり、「私たちが死んだらこの子はどうなるのでしょう!」と叫び、脳性マヒ者のコロニーの建設を北海道庁に訴えた。

 それから一三,四年経ち、道庁はやっと思い腰をあげた。ところが、望みが実現化されようとしている時、コロニーは本当によかったのか? という疑問が、コロニーに住んでいる障害者から出てきた。子どもの頃は「大人になったら母さんと一緒に福祉村に住むんだよ」と言われ、福祉村に遊園地のようなイメージを私は抱いていた。しかし、一四年経って、なぜコロニーがいけないのか・・・なぜ、なぜという疑問が強くなっていくばかりだった。

 

 私が高校生の時、初めて親たちと役所の人たちとの話し合いに出席した。親たちは、役所の人たちに、涙ぐみ、手を合わせて、「お願いです。一日も早く福祉村(コロニー)をつくってください!」そして、障害者たちは、親も後ろでだまっているだけだった。わたしは、なぜかその姿に無性に腹がった。”なぜ自分たちのことを自分たちの言葉でいわないのか”と思った。その頃、東京のある障害者団体の機関紙の中の「親による代弁はいけない! 障害者は自分で判断し、行動し、責任をとらなければならない」という一行に出会い、私は目が醒める思いがした。

 福祉村は自分たちで作ろうということで、一〇人くらいの障害者が集まり、「いちご会」をつくった。障害者と役所の人が直接会話をした時、初めて服し村が母から聞いていたようなパラダイスではないことがわかった。障害の程度によって障害者を分類し、いままではバラバラに建てられていた授産(註2)、更正(註3)、療護(註4)という三つの施設をかためて大規模な施設を建てるというのが福祉村であった。

 

(註1:コロニー 大規模な集合施設。各種施設がかたまって一個の村を形成する)

(註2:授産 社会参加が可能な障害者に働く場を与える。保護された職場)

(註3:更正 訓練によって社会参加が可能と思われる障害者を収容する。社会復帰をねらって訓練する)

(註4:療護 着替え、排泄、食事などのすべてに介助を必要とする。最も重度な障害者の生活訓練を主とする。

 これらが一応のタテマエとなっているが、真に障害者の社会参加を助けるものとなっているかは疑問である。にもかかわらず、これら三つは、障害者とその程度によって、「分類」する基軸となっている)

 

 

 施設からケアー付き住宅へ

 

 今、「いちご会」の仲間のほとんどは施設に入っている。今の施設では、障害者はいい大人になっても四人、六人あるいは一〇人といった病院式の部屋に入れられている。好きな人がいても話し合える部屋がない、泣きたくても泣けない、一日中人に見られているというのが障害者のいちばんの悩みであることがわかった。そこで、「いちご会」では、福祉村に自分の部屋を持ちたいということを訴えた。何一〇回もの役所とも交渉で、口論となったこともしばしばであった。「あなたは自分の部屋を持っていないのですか!」と。また、ある友人は「また法律ですか!」と叫んだ。本当にその友人が叫んだ通り、役所の逃げ道はいつも「法律」であった。しかし、私たちはとうとうその自分の部屋を持つ闘いに勝った厚生施設で個室を持てたのは日本では北海道の福祉村だけだろう。しかし、三畳間程度の部屋で車椅子の人が本当に快適に暮らせるだろうか。自分の部屋から一歩外に出ても、障害者ばかりの世界であることには変わりはない。これでは、今までの施設に毛の生えたようなものである。

 

 個室をつくることでもめている時、東京のあの例の機関紙から「ケアー付き住宅」という言葉が飛び込んできた。日本ではケアー付き住宅の形ははっきりしていない。しかし、間違いなく言えることは、私を目醒めさせてくれたあの言葉、「自分で判断し、決定し、行動する」という一言で示されるように、私たち自らが責任を持って生活できる人間でなければ、ケアー付き住宅には住めないだろうということだ。今までの施設の中では、障害者が外で酔ってころんでケガをしても、決して自分の責任にはならない。管理者が責められるのだ。酒は飲んではならない、恋愛は自分で食べられるくらい稼げるようになってからと、障害者はいくら年老いても上から抑えられている。

 ケアー付き住宅が日本のあちこちに本当に制度として整ったなら、もうそんなバカげたことはなくなるだろう。普通の民間、公営アパートのところどころに障害者の住宅を一〇数戸の単位ではめこんでゆく。一階にはヘルパー室があり、二四時間体制で、トイレ、食事、着替えなど、必要な時にボタンを押すと介助が受けられるというのがケアー付き住宅である。まだ日本では明確なかたちを整えた建物はできていないので、いくら口で話してもイメージがわいてこないだろう。

 建物自体はもう日本の技術では北欧に負けないので、つくろうと思えば、今すぐ、明日にでもできる。いちばん難しいのは、介助者(ヘルパー)をどうするかである。

 

 

 スウェーデンの障害者との出会い

 

 ケアー付き住宅が日本でもできると確信したのは、スウェーデンのヨーデボリ大学障害者部(註1)教授のブラッドゴート博士の論文を読んだ日からだった。

 スウェーデンでも一五年くらい前までは大規模施設、コロニーが最高のものと考えられていた。しかし、次第に障害者たちは隔離された世界に不満を持つようになった。

 博士自身も下半身がマヒしており車椅子に乗っている。障害者も健康な人と同じ住宅に住みたいと思うことは当然のことだと考え、テレビで二四時間チャリティーをした。何億円というお金が集まり、フォーカス協会をつくった。そして、各地域にフォーカスアパート(註2)をつくった。その資金集めは、日本の赤い羽根募金を見習ったということだが、何とも皮肉なことである。

 博士の論文の中で印象深かったのは、博士の考え方に反対した人が大勢いたということである。何もできない障害者が一人で家にいるのは危険だ! 何かあった時には誰が責任をとるのか! と多くの専門家は言ったという。それに加え、障害者自身も、自分たちはそんな暮らしはとてもできない! 恐ろしい!今までの施設の方がいい! と言った。しかし、いざフォーカスアパートをつくって半年が経った時、誰一人としてもとの施設や親の家に戻りたいと言う人いなかったとブラットゴート博士は論文の中で結んでいる。

 

 私たちが福祉村に個室をつくって下さい! と叫んだ時も、福祉関係者や施設生活しか経験のない障害者たちも猛反対した。「危険だ! 何かあったら!」と。しかし、福祉村ができて一年、福祉村に見学者に行くと、村の関係者は必ず個室の自慢から話し始める。あたかも役所の人びとが考えてつくったかのように。実際はその個室は一握りの障害者の声から生まれたものなのだ。

 世界的に権威のある博士が、私たちと同じ経験をしてきたことを知った日から、スウェーデンの福祉が自分にとって近いような気がした。

 

 私は、たくさんの人たちの応援によって去年の八月、スウェーデンに行ってきた。テレビや本で知った時の心踊る感激とは違った、静かな落ち着いた感激といおうか、私たちも努力したならきっとこのような暮らしができると思った。

 スウェーデンの福祉の制度は、日本からたくさんの専門家が行って文章化しているので、私はそのことについては触れないことにする。

 とにかく、一人一人の障害者に出会っても、あっ(日本の施設の)友人の誰かさんに似てる! という感じで、言葉が通じなくても私の知っている仲間とそう代わりがないと思った。

 スウェーデンについて数日後、夢にまで見たブラットゴート博士にお会いして、フォーカスアパートを目の前にした時、私たちもどんなに時間がかかっても絶対につくらなければならないと思った。

 私とまったく同じ障害を持ち、足指を使って暮らしている二二歳のオーサという、まだ少女の面影のある人に出会った。スウェーデンでは必要なら車椅子を三台までただでもらえる。足だけで運転できるすばらしい電動車椅子もある。オーサは足首に時計をはめ、足で車椅子をこぐ。私は、汗を流して車椅子をこいでいるオーサに、「オーサ、なぜ足で運転できる電動車椅子に乗らないの?」とたずねた。オーサはニッコリして、「あれは楽だけど、なまけものになるからね」と答えた。私はたくさんの障害者に出会ってきたが、オーサの「なまけ者になってはいけない!」という言葉にこれからの私の生き方をはっきり教えられたのだった。

 

(註1:ヨーテボリ大学障害者部 スウェーデン第二の都市、ヨーテボリ市にある。スウェーデンではほとんどの大学に障害者部がある)

(註2:フォーカスアパート ブラッドゴート博士によって創設された、重度障害者のための生活の場)

 

 

 ケアー付き住宅のための研究生活

 

 私たちは、一ヶ月間の合宿(実験生活)(註1)を第一歩として、二歩目は、民間アパートを三世帯分借りてケアー付き住宅のための研究生活に入ることになった。いつも通り、公的援助は何もない。しかし、役所で行う机上だけの研究より、実際に暮らしてみて、どんあふうにしたらよいかと検討する研究の方がずっと重みがあり、真実であると思う。

 私がテンプラを揚げてヤケドしたり、事故で生命をなくした時、「ほら、みなさん、ケアー付き住宅は失敗だった!」と言われるだろう。しかし、この研究生活で私たちが成功しようと失敗しようと、ケアー付き住宅は必ず誰かが自分の手足を使い、つくらなければならない、障害者にとって大切な仕事だと思っている。

 

(註1:合宿 家でもなく、施設でもない、もうひとつの生きる場を発見し、そこで障害者が自立した生活を送るためには、最低限度のような介助が、どれくらい必要かを調べるための実験生活。数人の障害者が自らの身体をかけて行った)

 

 

 

 

 

 

 

 地域で暮らしたい

 

 

土井正三

 

昭和一二年、北海道虻田郡虻田町に生まれる。脳性マヒ。歩行困難。手の指も細かい作業はできない。十二歳の時から両親と共に札幌の長兄の家の世話になる。一七歳の時、近所の小学校に一年生として入学したが、二年生の時、症状が悪化し退学。四年前、面倒を見てくれていた母を亡くし、「このまま何となく暮らしてしまってはいけない」と、四〇年間の家に閉じこもりきりの生活に終止符を打ち、研究生活に参加。現在は週一度、街の中の授産所で働いている。

 

 

 

 私は一七歳の時、初めて小学校に行きました。ところが、一年経ったある日、突然歩けなくなってしまいました。それから四〇歳になるまで、家に閉じこもっていました。

 

 母が死んだ時、兄弟が集まり、誰が私の面倒を見るかと深刻に話し合っていました。その時の悲しさは、今も忘れることができません。母がいなくなってしまってからは、「じぶんはこのままでいいのかな?」と考え始めました。そしてある日、新聞である障害者の会のことを知り、電話をかけたところ、すぐに迎えに来て下さったのです。

 

 その時から私はいろいろなところに行き、沢山の人と出会い、生きるということがこんなにも楽しいものだということを知りました。しかし、やはり、兄に厄介になっていることを思うと、「ひとりで暮らしたい」という気持ちは、一日一日強くなっていきます、友達は私のことを「浦島太郎」と言いますが、その通りなのです。四〇年間家に閉じ込もっていたので、この世の中のことはわからないだけです。

 兄に厄介になっているのがつらいと言うと、わかりの人は「施設に行きなさい」と言いますが、今、私はせっかく地域で暮らしているのに、施設に行ったなら、隣の人たちは私のことを忘れてしまいます。

 

 「いちご会」の行う研究生活に参加することは、とても楽しみで、生活に慣れたなら漢字の勉強もしたいし、何か私にもできる仕事をしたいです。アパートから仕事に出かけるということは、普通の人と同じように暮らせるという証明になります。

 私は手が使えますから、お手伝いしていただきたいことは、買い物と炊事です。炊事は何度か習って、あとは工夫してやってみたいと思います。 

 たくさんの人が来て下さることを祈っています。障害者と健康な人たちがいっしょに生きられる街をつくっていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 かけがえのない生活 

 

 

池田源一

 

 昭和一〇年生まれ。進行性筋ジストロフィ。一〇歳のころ発病し、歩けなくなる。これまで病院生活をたびたび繰り返してきたが、病院の「過保護」と「集団の中の孤独」の中で苦しみ、「生きる実感」を求めて、五二年夏、周囲の反対を押し切って飛び出す。札幌市内のアパートでボランティアなどの力を借りて一人暮らしをするうちに『いちご会』のケアー付き住宅建設運動を知り、参加。油絵を趣味とし、時々、役所からもらった電動車椅子で単独街に出かける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地域で暮らすことは私たちの仕事です。

 

 私は、一人で買い物に行った時、やさしそうな人を見つけ、ポケットからお金を取ってもらい、食事をしたり、トイレまで手伝っていただきました。私につかまった人はいい迷惑だったでしょうが、その時、「これからの障害者の生き方はこれだ!」と思いました。

 二年前、私たちは、一ヶ月間合宿を行いました。施設を出て、初めて料理を作った人たちばかりでした。口に包丁をくわえ、ゆでたまごを切りました。私は足指を二回切って、血液で味付けをしてしまいました。初めて施設とちがった体験をした友人が、「ああ! これが当たり前の生活なんだね!」と言いました。

 

 私が忙しい時、しばらく近所の市場に行かないで、たまに行くと、「あらっ、あなた、施設に行ったんじゃないの?」と言われ、ショックでした。最近は、「障害者は施設に入るものだ。地域にうろうろしているのはおかしいのだ」ということがあたりまえになってしまっています。

 市場に行った時、子どもは、最初に私たちを見て指をさし、笑ったり、泣きわめく子さえいます。しかし、毎日行っていると、「こんにちは、お姉ちゃん、今日は何買うの?」と話しかけてくれるのです。このことこそ、将来を背負った子供たちに対して、私たちがやらなければならない仕事なのです。

 

 この生活は、北海道や札幌市が立ち上がり、障害者や老人が施設で暮らす制度、公的なケアーをくれるまで続けます。

 

 一日に二、三時間、お時間のある方はお手伝い下さい。今、どんな健康な人も、いつか年老い、車椅子にすわり、身の回りを手伝ってもらわなければならない時がくるのです。そんな時、ケアー制度があれば、住み慣れた家を離れて老人ホームに行かなくても暮らせます。

 私たちは生きることに挑戦します。ひとりでも多くの方の手をお待ちしています。

 

 

 あとがき   小山内美智子

 

 施設にいる友が、悲しくても泣ける部屋がない。恋愛は罪なことよと、暗いまなざしをする。そんな時、「そうね、食事から排泄まで、すべて人に手伝ってもらわなければ生きていけない私たちには、人を好きになることは許されないのね」と、悲しい会話しかできなかった。しかし、ブラットゴート博士は、どんな障害が重くとも、彼らが恋愛をした時、障害のない者が彼らをベッドに連れてゆく介助までするのが当然だとテレビで語っている。そのことは、今まで、思っていても絶対口にしてはならないことと思っていた。

 

 私は二四歳の時、博士に手紙を書いた。博士からたくさんの資料が送られてきた。その中にこれらの論文があった。私は論文を読み、どうしてもこのすばらしい世界を自分の目で確かめたいと思っていた。

 一九七九年八月、二六歳の時に私はたくさんの友人の応援をいただき、ついにスウェーデンに行き、博士とお会いすることができた。スウェーデンは私にとって、遠い国ではなかった。行ってみると、いつも日本の友人たちと同じような人たちばかりであった。肌の色と言葉が少し違うだけである。

 

 そして、私は泣きたい時に泣ける部屋、排泄を手伝ってもらわなければならない人もすばらしい恋をし、結婚もできる、「生きる場」をつくれる! と確信して帰ってきた。この道はまだまだ岩があり、大木があり、砂地である。そこへ家をつくるまでには気の遠くなるような仕事がたくさん待っている。しかし、この荒れ地は、障害のある者と、やがて障害を持たなければならない者とが助け合って切り開いてゆくものだ。

 

 日本の、札幌での私たちの研究生活は、スウェーデンのケアー付き住宅とはあまりににもかけ離れている。私たちの研究生活に関する記録が真に始まるのもこれからなのだ。現在、「いちご会」が行っていることを、地方自治体や国が本気で取り組み始めた時、この本は終わるだろう。そして、また、やらなければならないことが生まれてくるだろう。

 

 心の足をしっかり大地につけて、歩かなければならない。

 

 

                 奥付

                 心の足を大地につけて ー 完全なる社会参加への道 ー

                 定価一三〇〇円(〒二五〇)

                 一九八一年一月一日

                 発行者 札幌いちご会(代表 小山内美智子)

                     札幌市豊平区美園11条5丁目 みちハウス内

                 発行所 ノーム・ミニコミセンター

                     札幌市中央区大通西18丁目 大通りクィーンハイツ

                 装幀  川上俊治

                 写真  中田輝義

                 印刷  北海道機関紙印刷

 

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